日本人と船
2027年、東京湾に新しい船が就航します。その名はAMANE(海音)。天王洲を拠点に、東京湾を3時間ほどかけてめぐりながら食事を楽しむ、小さな船です。
AMANEには前身となる船があります。東京湾を走り続けてきたレストランクルーズ船「レディ クリスタル」です。就航から30年余りが経ち、ひとつの節目を迎えていました。
やめるか、続けるか。
出された答えは、「もう一度新しい船をつくる」でした。東京湾でクルーズ文化を育て続ける。そのために生まれる新しい船が、AMANEです。
この船の持ち主は、世界中で800隻あまりの船を動かす海運会社・日本郵船。なぜこの大きな会社は、全長48メートルの小さな船にこだわるのか? その意味を知るためには、実に100年以上もの時間を遡る必要があるのです。
長い航海が、文化を生んだ
かつて、海を渡ることは大仕事でした。欧州へは1ヶ月以上、北米西海岸へも2週間近く。この時代、日本人が世界へ向かう唯一の交通手段が船だったのです。
その航路を切り開いた会社のひとつが、1885年(明治18年)創業の日本郵船でした。国内沿岸からはじまった航路は、まもなくアジア・欧米へと広がり、1935年(昭和10年)には、日本は英国・米国に次ぐ世界第3位の海運国に。その成長の中心を担ったのが、日本郵船の船隊でした。
当初、船が運んだのは主に貨物でした。やがて旅客もまた、海運の主役のひとつになっていきます。その時代を代表する豪華客船が、1929年(昭和4年)竣工の「浅間丸」でした。

太平洋の女王
「浅間丸」は全長178メートル、速力21ノット。ラウンジ、図書室、プール、劇場が備わり、一等食堂、読書室には英国クラシック様式の内装が施されました。諸外国船を圧して欧米の旅客からも高く評価され、「太平洋の女王」と称されました。
しかし実のところ、この時代の旅は過酷でもありました。何週間もの時間を、ただ海の上で過ごさなければならない。その時間を、どう豊かに過ごすことができるのか。長い旅路が、この時代の客船文化を生み出したのかもしれません。



洋上のフランス料理
洋上の日々を豊かにするもの。その一つが食でした。1916年(大正5年)、横浜に、フランスから招かれた料理人による養成所が開かれました。指導にあたるシェフの月給は1,000円。社長の月給が1,200円だった時代です。
この養成所で数百種にのぼる料理のつくり方をマスターした者でなければ客船の厨房に立つことはできない。それが当時の条件でした。
この養成所から巣立ったシェフたちが、客船の厨房を支えました。やがてその評判は帝国ホテルや精養軒と並び称されるほどになり、下船した料理人たちが陸に店を開くと、その技は近代日本の洋食文化の源流のひとつになっていきました。



サービスは素敵、酒蔵はとびきり
船に乗っていたのは、日本人ばかりではありませんでした。喜劇王チャーリー・チャップリンは、日本郵船の船を愛用していました。1932年(昭和7年)、映画「街の灯」完成後、来日した際の帰路も「氷川丸」を選んでいます。食事がおいしく、静かで家庭的な雰囲気がある——船を選んだ理由として、そんな言葉が記録に残されています。
アインシュタイン、ヘレン・ケラー、ジャン・コクトー。世界的な著名人たちが、日本郵船の乗船名簿に名を残しました。日本からは、宝塚少女歌劇団が欧州公演の往復に、1932年ロサンゼルス五輪の選手団が太平洋横断に、日本郵船の船を選んでいます。
コクトーは「鹿島丸」の船上で、チャップリンと偶然乗り合わせました。英語と仏語の壁を身振り手振りで乗り越えながら、2人は人生と芸術について語り合ったといいます。そのときの船の印象を、「サービスは素敵、酒蔵はとびきり」と書き残しています。


海から、人が消えた
しかしそんな豪華客船の時代にも、徐々に陰りが差し始めました。1939年(昭和14年)、欧州で第二次世界大戦が勃発。欧州航路は相次いで休止を余儀なくされ、海は少しずつ戦時の様相を帯びていきました。
1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が開戦すると、世界中で民間船舶が戦時管理下に置かれていきました。あの華やかな客船たちも、例外ではありませんでした。戦前に延べ76隻を数えた貨客船は、次々と軍に徴用され、輸送船や病院船へと姿を変え、あるいは戦火の中に沈んでいきました。
生き残ったのは、氷川丸ただ一隻でした。特設病院船として白色の船体に赤十字を記し、3度の触雷を経験しながらも、沈まずに終戦を迎えました。

戦後、氷川丸はシアトル航路に復帰しました。しかし1950年代になると、旅客機の時代が本格的に始まります。速さを求める人々は空を選び始め、海の旅のシェアは急速に失われていきました。
1960年(昭和35年)、定期旅客航路は廃止され、氷川丸は引退。その船体は翌1961年、横浜の山下公園に係留されます。船で世界とつながっていた時代は、ここで一度幕を閉じたのです。
移動の手段から、時間を楽しむ場所へ
戦後の復興と経済成長を経て、人々の暮らしは豊かになっていきました。速く移動することよりも、その時間をどう過ごすかを大切にする——そんな旅の在り方が求められ始めた1970〜80年代。世界ではクルーズ産業が急速に成長し、欧米の大手クルーズ会社が日本市場への参入を狙い始めていました。
そうした中、日本郵船の社内でも客船事業の再開が検討され始めます。しかし、一度撤退した事業への再参入は、簡単な決断ではありませんでした。
やめるか、始めるか。
「時代が変わり、あのとき客船を造っておくんだったなあと地団駄を踏むことがないようにしたい」——当時の社長のこの言葉が、再参入を決定づけたといいます。1960年の撤退から、約30年が経っていました。
東京湾の、親密なクルーズ
この決断から生まれた船のひとつが、1991年秋に就航した初代「飛鳥」。戦前の客船の雰囲気の再現を設計の根底に置いた、日本籍最大のクルーズ客船です。

一方、若手社員の社内提案から生まれたのが、東京湾を舞台にした小型クルーズ「レディ クリスタル」です。2〜3時間の船旅のなかで食事と海の眺めを楽しむ——かつての遠洋航路とはまったく違う、親密なクルーズの形でした。

それから30年余りが経ちました。船はもう、移動のためだけの手段ではありません。かつて世界とつながる唯一の手段だった船が、時間そのものを楽しむための場所になった。週末のディナークルーズ、夏の家族旅行、定年後の長い旅。海の上で過ごす時間は、より多くの人のものになっていきました。
時代が変わっても、この船を何度も選ぶ人たちがいました。その理由を聞くと、いつも同じ言葉が返ってきます。食事がおいしいから。誰かが自分のことを覚えてくれているから。船からしか見えない景色があるから。
東京湾で、海の音を聞きに行く
AMANE(海音)は、東京湾をおよそ3時間かけてめぐる小さな船です。客船の時代から磨かれてきたフレンチと、海の眺望に包まれながら過ごせる空間。
目の前に広がるのは、この場所からしか出会えない東京。
海の上で過ごす時間を、どう豊かにするか。100年余り問い続けられてきたその答えを乗せて、新しい船がここから出航します。レディ クリスタルから、AMANEへ。ずっと変わらない海の音とともに。

